江戸東京坂道探訪
街かど徘徊、坂道徘徊を楽しみとする者にとって、令和現代の中の東京風景は、以前にもまして見どころのある楽しみ方を教えてくれているようです。
そこには、江戸東京の記憶を下地としながらも飽くことのない変化変化を添えつつ、東京坂道の背景にも、未来へ向かう新たな景色を展開させて、細やかな道楽にわずかながらの色付けがなされているように思われます。
[新吉原日本堤衣紋坂曙]
衣紋坂は、江戸新吉原の日本堤から大門に至る間にあった坂。遊客がみな衣紋をつくろうところから衣紋坂と呼ばれた。
(新吉原衣紋坂日本堤 絵師:広重)
現在の衣紋坂
昌平坂
外神田一丁目と文京区側湯島聖堂の境を北に上る坂で、坂名は聖堂の前身である「昌平黌」の名称にちなんでいます。由緒あるこの坂の上方は、文京区の湯島坂に合流、左折、西に行けば神田明神前となります。
綱の手引坂
坂上を西に行けばこの三田台を西に下る「日向坂」につながり、途中を南に曲がれば「綱坂」、その先を北に折れれば「神明坂」。南側に連なる瀟洒な風景は、綱町三井倶楽部やオーストラリア大使館です。
八山の坂
五反田駅東口と品川駅西口を結ぶ八山通りが北品川5丁目と6丁目の境を、武蔵野台地東端の高輪台の尾根を迂回する途中の大坂。一帯はソニーの本拠地といわれるところです。
蓮華寺坂
白山下バス停近くの白山2丁目と4丁目の境を西へ少し弧を描いて上る穏やかな雰囲気の坂道。春先のハナミズキの若葉や桜の並木などと共に季節ごとの風景が楽しめる嬉しい坂道です。
鮫ヶ橋坂
赤坂迎賓館の正門前を目指し、進行方向右手に学習院初等科を確認出来たならその地点が鮫が橋坂上、東の基点と心得ます。前方の深い森影は赤坂御用地東宮御所のみどりです。
十七ヶ坂
目黒通りと山手通が交差する大鳥神社前の十字路を山手通り南側を西に渡ります。田道保育園・田道ハイムのある一角から北西方向に上る坂道の由来などが板碑でわかります。
善光寺坂
元禄時代、坂上にあった善光寺が焼けて青山に移った後も名残の坂名となった由です。この坂道通りの前後には、東に寛永寺坂、西は文京区根津の弥生坂とつながっています。
観音坂
青山通りが渋谷2丁目で二股に分かれ、南西へ下る坂が金王坂、西へ下る坂が宮益坂。坂下は渋谷駅ガードを潜り道元坂下へ繋がります。変貌著しい大都会の繁華街を行く大坂。
臼田坂
坂の途中にある「磨墨塚」にちなむ名馬の産地でもあったようです。また、ここは、古来より遠く江戸東京の海を望みながらの人馬共に健康の地だったことが偲ばれます。
永泉寺坂
界隈は築地本願寺、その他の寺院が多く、坂はその脇を神田川に架かる永福橋際まで下ります。善福寺川を越え堀之内の妙法寺のある寺町へとつながる巡礼道だったかとも思われるます。
城山の坂
現在は志村小学校があり志村城跡と熊野神社や旧志村村役場跡のある城山公園の坂。公園へ上る城山通り付近の志村1丁目の坂のある一帯は確かに地の利を拠点とした人の思いが分かるような所です。
モチ坂
金網の先は眼下にJR東北線が疾走。昔、駒込村から崖下の尾久村へはここを上下した由です。モチノキが茂っていた坂の下のその下には国史跡日本最大の中里貝塚がねむっています。
座頭ころがしの坂
広大な公園の脇の切通し坂下は北西方向から下って来た愛宕坂と合流します。その先の仙川に架かる清水橋を渡る辺りからは東京の中に鄙びた風景を眺めることができます。
らんとう坂
石神井方面から続く長久保道が白子川をすぎて上り坂となるこのあたりは、丘上から遠く都心方面が眺められます。坂名は坂途中にあった卵型の石塔からだったそうです。
宿坂
鎌倉街道跡で坂の前後には古刹古跡が散在。坂上には雑司ヶ谷鬼子母神、坂下には南蔵院、氷川神社、神田川に架かる面影橋のたもとには大田道灌ゆかりの山吹の里の碑などがあります。
十貫坂
坂上は賑やかな商店街で、坂下は喧噪をはなれて地蔵堂もあり古くからの道であることを知らされます。道の先は立正佼成会大聖堂の方へ続いて中野方面からの参道かとも思われました。
芋坂
芋坂跨線橋を渡り日暮里の羽二重団子脇へ下る人道橋。戊辰戦争の折、敗走する幕府方兵士が変装して下り、夏目漱石が作中人物に語らせ、正岡子規が句作で通ったという坂跡です。
地蔵坂
墨田川沿い、通称墨堤通りの脇にある子育å地藏尊が坂名の起こりのようです。古くから隅田川土手上に祀られた地藏尊は地域の人の拠り所となっています。墨田区内にある唯一の坂道です。
辰巳の森海浜公園
江東三角州の大方を占める江東区で坂道はやっぱりですかね。でも、何とかやって来ました。間もなくここに好もしい坂の風景が展開する筈です。
葛西臨界公園前の坂
墨東と言われる墨田区江東区のそのまた東に位置する平坦の地形ですから、坂道を求めるのはちょっとという所ですが、ここにそれらしき景観を捉えることが出来ました。
矢切の土手坂
「寅さんの故郷」柴又帝釈天裏手から江戸川土手に上る坂。江戸川の水位と同レベルの平坦な地形で坂道なるものにはお目にかかれないのですがこの景色の中にそれらしき様子を発見できたのです。
清水坂
坂道フェチなどと言う呼称が有るらしいけど、言われてみれば僕なども確かにその中の一人かも知れないですね。
そもそも生まれ育ったところが坂の多い軍港呉という町だったこともあってか無意識のうちにも坂道への関心が身に付いていたのかも知れません。
それと共に、後々物の本などを読むようになってから、誰かの書いた読み物の中に坂道に関連する項目やある断片の箇所に何かしら興味を感じたりしたことなどがきっかけだったりしているんだろうなというところですね。
そんな中でも坂道への関心や興味を強く刺激したものと言えば、江戸時代初期の古典とされる戸田茂睡翁の「紫の一本」、大正昭和期の大家永井荷風翁の一連の書で、中でも「日和下駄」などの記述は僕をすっかり荷風ファンに仕立て上げ、挙句にはこの先達たちのオッカケと言うほどの坂道フェチに仕立て上げたのでした。
てな次第ですが、ここでは過去五六年を掛けて訪ね歩いた「江戸八百八坂」の内の七百近い坂道を、デジカメで取り集めた写真で案内することとしましょう。
この写真のそれぞれも一写入魂の気合で撮った筈なんですが、仕上がりの方は兎も角としてまずはご照覧頂き、東京の坂道の多さを感じてみて頂きたいものですね。
何れは、この各一枚に一言を添えられれば万々歳となるんでしょうが、果たしてどうなる事やら保証の限りでないことだけが確かなようです。
余談ですが、坂道歩きの楽しみはその由緒や来歴などに思いを馳せながら勝手な妄想にふけってみたりというところですが、僕など、いっぱしのカメラマン気取りで、安デジカメのファインダー越しに我ながらの美感を駆使しながら対象の風景を切り取ることを喜びにしているんですが、意外と納得のものは少ないもんだななどと生意気を感じていたりする日々です。
森光 宏明